わたしの昭和

最近、「わたしの昭和」ついて寄稿を依頼されて、昭和時代のエピソードを思い出しながら書き留めておりました。その一部を紹介します。

わたしの昭和

昭和時代を過ごしたのは昭和39年から昭和64年までの25年間。昭和の印象は、総じて自然豊かな暮らしがあり、大らかで寛容、人情深いこと。田舎の不便さ・雪国の厳しさはあったが、忙しさに煽られる感覚は少なく、季節を味わい、じっくり時が過ぎていた。現代のタイパ・コスパとは程遠い生活だった。

子ども当時、親族の意見や地域の目は、自分勝手な行動に自制を効かせ、投げやりな気持ちを思い留まらせてくれた。

田舎にないものが都会にはあると思え、颯爽とした大人に憧れ、単純に働くことしか考えていなかった。今は、都会にないものが田舎にあると思える。

思い返すと、今では考えられないような常識があり、めぐる時代の中での経験で、自身の価値観や思考が少しずつ変化している。私にとって生き抜く糧の教えは、昭和時代の経験が大きいと実感している。

現代は、面倒なことに無理して関わらず、自分の好きなことで世界の人とつながることが可能となった。愛情に根差した真摯な厳しさは伝わらないのかもしれない。

「時代におけるあたりまえと常識」のギャップが、人を戸惑わせている感じがする。

ありのままの自分が、自分として認められて生きていける相互理解や、誰かに貢献できている実感が持てることは、時代が変わっても生きやすくなるヒントになると考えている。 温故知新のバランスはいつの時代も大切にしたいと思う


昭和のエピソードより 今では考えられないできごとがありましたが、そのことが現代の生活に活かされています。

●黒電話は居間に一台、友達から電話がかかっても誰と何を話したか概ね家族に知られ、「学校で話せばよい」と簡単に言われた。長電話など到底できずバツが悪かった。手紙や交換日記が流行り、数名でやりとりした。相手の反応を察しながら、消しては書き直し、消しては書き直しの連続。電話でのコミュニケーションは緊急性や必要な伝言の手段で利用されることがほとんど。
現代は一人1台の携帯電話、いつでもどこからでも即受発信、かけ放題もある。今ではコミュニケーションの手段として欠かせないものとなった。
SNSはとても便利で、どこか怖い。

●大人たちの会話は、戦中前後の影響も垣間見えた。見聞きして学び、お膳の準備を手伝って家事を覚えた。子どもがお酒やたばこのおつかいを大人に頼まれた時代。
昭和は家庭も地域社会も乗り物も受動喫煙だらけ。今思えば、現代のアルハラに該当する場面など、反省材料も多い。

●当時「アタックNO1」に憧れて入部した部活動は、体罰が嫌で退部。当時の顧問は罪に問われることはなかった。現代も時折ニュースで見聞きするが、体罰は根絶できるのだろうか。

●昭和59年、祖父96歳、自宅で看取られた。医師の訪問はあったが、当時は家族看護が習わし。
葬儀は自宅で執行。湯灌も清拭も死装束も近所の方々が協力して行う。家に伝わる祭壇・逆さ屏風・掛け軸を設え、葬儀屋の出番はなかった。納骨までの間、地域の人が集まり、毎夜補陀落供養もする。

(平成の話になりますが)嫁ぎ先の義父は、70代全般から認知症傾向(平成16年までは痴ほう症という名称)長年の介護の末、老衰で96歳の天寿を全う。介護の途中から介護保険制度(平成12年4月)開始、即利用。
家族や親族全員で、自宅で瞬間を看取る。私の祖父が逝去してから25年後(平成22年)だった。
昭和の経験がなければ、最期の看取りはできなかった(しなかった)と思う。